みみずく会 「談 話 室」



4283件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[6953] ヤンバルヤスデ

投稿者: datsun 投稿日:2018年12月14日(金)16時56分17秒   通報   返信・引用   編集済

先月あたりからムカデに似た「ヤンバルトサカスデ」が
部屋に侵入して来て困っていました

インターネットで薬剤を取り寄せ家の周りに
散布しましたらおびただしい数のヤスデが
死んでいました

近所の人に聞いたら「市役所の環境衛生課」
旧南日本新聞社屋の四階で無料で配布してくれます
と教えて貰い三〇〇グラムの袋を貰ってきました

このヤスデは台湾から沖縄を経て
鹿児島県全域遠くは神奈川まで範囲を広げているとか



[6952] しゃも会第166回報告

投稿者: 上園 千代喜  投稿日:2018年12月13日(木)16時50分24秒   通報   返信・引用

しゃも会第166回報告(平成30年12月12日開催)
前略
 本年も余日少なくなりました。本日は、関東地方も、寒さが本格的になってまいりました。昨日、今年の漢字として、「災」が発表されました。清水寺にて、森管主が揮毫されました。来年は、「災い転じて福となす」を期待したいものです。新聞情報によりますと、巨大IT企業に対し、個人情報保護の観点から規制をかける必要があるのではないかとの検討が政府において進められているとのこと。確かに、知らぬ間に、個人情報が盗まれ、突然、電話があり、「〇〇・・・」の話がありますね。どこで、どのようにして、自分の情報を知ったのか、疑問に思われます。
 さて、そのようなIT時代に遅れないように、「IT時代を浮遊することなく」しっかりと生きていきたいものです。
 さてさて、「勝手なる報道記者」も、家庭の事情により、しばらく、勝手にお休みをいただいておりましたが、皆様の温かいご声援を受け、本日より出勤いたしました。すでに「席」がなくなっているのではないかと心配いたしましたが、「自由参加であり、お前の席はあるよ」とのS君の温かいお言葉を頂き、誠に有難うございました。
 さて、例によって、非公開が原則なれば、詳細を報告できませんが、最後まで、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
草々
本日の出席者は、以下の通りです。
12月度の出席者(9名)
31R;木之下さん、桑鶴さん、(準会員)美智子さん、上園
33R;新條さん、早崎さん、山元さん、(準会員)亀澤清武さん、
35R;藤井悦子さん、

(1) お土産
(1.1) 亀澤清武君より、「ひーたまげたんは」を頂きました。いつも鹿児島のお土産を頂き、有難うございます。有難う!!!
(1.2) 桑鶴君より、女性陣(藤井さん、・・・???)に、「シクラメン」を頂きました。いつもながらのご配慮を賜り、感謝しております。有難うございます。有難う!!!
(1.3) (株)さつまより、「讃岐うどん」を頂きました。いつも気を使っていただき、有難うございます。
(2) 訃報の連絡
(2.1)35R;板山敏 様
   ご逝去されました(申し訳ありません。詳細をつかんでおりません)
   心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
(2.2)36R;立山護 様
   平成30年12月1日 ご逝去
   心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
   喪主;立山洋子様(奥様)
   〒174-0046 東京都板橋区蓮根2-28-5-404
   注記;奥様よりの喪中はがきによる。
(3) その他
様々な情報が飛び交いますが、非公開のため、割愛させていただきます。詳細を知りたい方は、是非、ご参加のほどを御願いいたします。
以上
次回予定;平成31年1月9日(水)午後5:00~
―――――To be continued?――――
 時々、continue 出来ませんね。「寄る年波には勝てぬ」かな???
平成30年12月13日記載
文責;31R:上園 千代喜(カミゾノ チヨキ)



[6951] カキツバタ

投稿者: datsun 投稿日:2018年12月12日(水)21時56分7秒   通報   返信・引用

庭に置いたバケツの中に咲いた
開花時期は5月頃また秋に咲くこともあるとのことだが
12月の中頃に咲いたので驚いている

名前の由来は
花の汁で布を染めたので「書き付け花」となり
「かきつばた」に変化したらしい

漢字で書くと”杜若”でなかなか読めない
原産地は日本、朝鮮半島~東シベリア



[6950] みみずく菜園

投稿者: 吉村 投稿日:2018年12月12日(水)10時33分0秒   通報   返信・引用

12月例会は13名の参加者でした
収穫物は大根

新年会は1月20日(日曜日)昼と決まりました
詳細は来年お知らせします。



[6949] 田上晃吉

投稿者: datsun 投稿日:2018年12月10日(月)16時13分22秒   通報   返信・引用   編集済

今朝の「あさイチ」で大河ドラマの”西郷どん”で
中原尚雄役とさつま言葉の指導をやっていた
田上晃吉さんが出演されていた

彼は先年亡くなられた”たぬき”こと一人芝居の
田上美佐子さんの次男で
長男は音楽家三男はサッカーのユナイテッド鹿児島の
選手です。

この動画は数年前彼の父親に許可を貰って
鹿児島中央公民館で撮ったものです













[6948] Re: 旧友

投稿者: 本田 哲郎  投稿日:2018年12月10日(月)08時26分50秒   通報   返信・引用   編集済 > No.6943[元記事へ]

  野添良隆さんへの返信です

> 戊辰戦争で幕府軍の庄内藩は、激戦の末官軍に負けましたが、官軍の責任者西郷隆盛は、藩主酒井忠篤を蟄居・謹慎等と寛大な処分に留める、極めて温情ある寛大なものだったことに感激し、中老管実秀や庄内藩士達は、鹿児島の西郷のもとに訪れ教えをうけ、そして西郷の教えを「南洲遺訓」として編纂し全国を行脚し配ったそうです。そして庄内酒田に、南洲神社が昭和51年に創建されております。
> 鹿児島より庄内藩の人達の方が西郷びいきで、鹿児島は顕彰の仕方が足りないと鶴岡の方々が話しておられました、
-------------------------------------------------------------------------------
  野添君!! しばらく!!   返信が遅くなってタイミングを外しており、すみません。

 実は先週の日曜日、12月2日の午後、サンエールかごしまにて「荘内と薩摩の交流」明治維新150周年記念シンポジュームとしての講演会(共催、維新ふるさと館、西郷南洲顕彰館)が行われて、拝聴してきました。

 第一部基調講演としては、なんと元荘内藩主の直系の第18代ご当主の酒井忠久氏が「荘内ではなぜ南洲翁は愛されたのか?」という演題でありました。
 明治維新までは荘内藩として代々酒井家が世継ぎで庄内地方を統治されて来た、いわば当時は「お殿様」である血筋の方が、鹿児島まで来られて、戊辰戦争での西郷隆盛の戦後処理の寛大な処置に対して、荘内地区の臣民がいかに西郷の措置に感銘して、最後には「南洲翁遺訓集」まで編纂して、後の西南戦争には参戦する荘内の人も現出するほどの人気ともなったことを、つぶさに語っておられました。

 第二部の基調講演では、これも日本史の名高い専門家である東大大学院教授の山本博文氏が「江戸幕府崩壊前後の荘内と薩摩」と題しての、明治維新前後の詳しい歴史的史実を説明されながら、明治維新とはどういうことであったのか?、荘内地区における戊辰戦争の経過をも辿りながらの講演でありました。
 その講演の細部は次の通りの順序でした。
「荘内藩と薩摩藩」(江戸時代のそれぞれの藩としての有様)、「大政奉還」、「王政復古クーデター、」「
クーデターの不発」、「江戸での攪乱工作」、「不逞浪士の挑発」、「江戸・薩摩藩邸焼き討ち」、「西郷にとって計算外?」、「鳥羽伏見の戦い」「未だかってない勝利」、「江戸城引き渡し」、「荘内藩の闘い」、「西郷、荘内に入る」、「旧荘内藩士の西郷嵩敬」まで、史実を時系列に沿って解説しておられました。
 山本博文先生は、特に近世日本史については造詣の深い先生であり、東大歴史資料編纂所の重鎮であり、ちょっと歴史を学んでいる歴史愛好家にとっては全くの「雲の上の存在」であり、今回の講演会のハイライトでありました。  自分も直に先生の講演を聴ける喜びを味わいました。
彼は「島津義弘の賭け」という小説も書いており、勿論、小生の書棚にも以前から並んでいます。
 このように高名な歴史学者が西郷を「嵩敬」という表現でお話しされたことは、いかに地元(荘内地区)での西郷人気が沸騰しているかを、物語っていると思われます。
 荘内(今の山形県)の方々が抱いている西郷観が地元鹿児島のそれに比べれば、もっと「絶大である」ということを改めて意識しました。
野添君が鶴岡で聞いたこと(西郷の顕彰が鹿児島では足りない)という指摘はなるほどと納得した次第です。

 小生も、あの関ケ原合戦後の「敵中突破」の立役者の一人が、我が永吉島津家第2代当主である島津豊久公との縁で、友好都市となっている大垣市(上石津町)に、市民交流として、あちらの「おまつり」などに何度も訪れていますが、あちらの方々は勿論、豊久公の顕彰には熱心ですが、あの地を流れる揖斐川などの支流(牧田川)などが江戸時代、雪解け・梅雨時期に氾濫を繰り返して稲作ができなかったことを、江戸幕府の命令で薩摩藩に「お手伝い普請」として命じた「宝暦治水」(木曽、長良、揖斐川の三大河川の堤防工事)を薩摩藩は2年間ほど、平田靱負以下900名の薩摩藩士があちらに赴き、苦労を重ねながらこの難工事を成就させた史実についても、あちらのこれの史跡や薩摩藩士が埋葬されいるお寺などを見学するにつけ、鹿児島での「宝暦治水」に対する評価と、愛知、三重、岐阜県の方々の「思い」との落差を痛切に感じたことも度々でありました。

 荘内地域での西郷人気へのい「思い」、愛知・三重・岐阜県の「宝暦治水」への「思い」も同様に、鹿児島の方々にもっと、もっと再確認されることも大事ではなかろうかと考えています。



[6947] Re: 喋る

投稿者: 98CHAN 投稿日:2018年12月 8日(土)22時22分58秒   通報   返信・引用   編集済

pusanさんへの返信です

> 先日、11月18日に東京池袋の繁華街からすぐの立教大学キャンパスに行って
> 来ました。本館の時計塔に絡まる蔦も紅葉してきました。立教大学は築地で開校
> して145年、そしてここ池袋に移ってきて丁度、100年を迎えました。その
> 記念の式典が行われるというので足を運んだのでした。1918年に建築された
> 赤レンガ造りの校舎6棟のすべてが東京都の歴史的建造物に指定されています。
>
> この四人の話を聞いていて、人は口のきき方や話し方で、その人となりが良くわ
> かるものだなあ~と思った。良寛禅師の良い戒めがある。
>  「ことばの多き」「口の早き」「あわただしく物言う」「物言いのくどき」
>  「間の切れぬように物言う」「へらず口」「さしで口」「手柄話し」「自慢話」
>  「人の物言い切らぬに物言う」「わが事をしいて言い聴かさんとする」など。
> テレビのワイドショウなどで「人の物言い切らぬに物言う」アナウンサーを見かけ
> ることがあるが、見ていて聞き苦しいものです。
>
> 式典の会場では嬉しい出逢いがありました。白いひげを蓄えた紳士を見つけ、もし
> やと近づいてみたら桑鶴武良君夫妻だった。今、東海道五十三次を歩いておられる、
> おしどり道中のお二人だ。以前お会いした時より、精悍な顔つきになっておられた
> ように見えた。楽しく元気に歩いているよとのことだった。日焼けした太い手に握
> 手して別れた。今、駿河路の沼津を過ぎたところで、まだまだ先が長い道中になる
> でしょうが、のんびり歩いて、人との出会い、自然とのふれあい、自分との語りあ
> いなど、この談話室で披露していただきたいものです。
>
*PUSAN、先日は母校=立教大学で偶然の出会いがありましたね。
*目にとめて戴いて、そして声をかけて戴いて有難うございました。 その時交わした握手の温もりを
*忘れがたく思い出しております。
*四人のトークショウ興味深く聞き入ってしまいました。
* 徳光和夫 のおとぼけトーク 小生と同年生で放送研究会の部長が私の級友でしたので時折
       彼の顔を見かけたものです。 1昨年都内某所のパーティで同席し旧交を温めました。
  関口 宏 のまじめなトーク 彼は父=佐野周二、息子は関口知宏、共に立教大学出身で
       親子三代の立教マン。息子は我が家の息子と同級生です。
  みのもんた一時銀座の夜の帝王と言われ栄華を極めましたが息子の不祥事、奥さんとの死別
       すっかり意気消沈の感あり。驕れるもの久しからず、諸行無常を感じました。
  古舘伊知郎記憶力抜群さ、話術の巧妙さ、は秀逸で当日の司会進行役を務めた。

*貴兄が書き記した通り、人の話というのは如何に大事かということは長年営業部門に携わった経験から
 充分に認識させられました。 自分の頭脳で考えたことを表現するのは先ずは”言葉”、そして二次的に
 動作=身振り手振り、顔の表情、眼ざし、更に日頃の行動、かと思います。
 言葉に関することで感心させられたことがあります。
 奈良時代のかの有名な僧侶・空海は彼の弟子が「日頃人間として心がけておきたい大切なことは
 なんですか?」の問いに対して、暫く考えた後、「人の短を言わず、己が長を言わず」と答えたそうです。
 簡潔明瞭な回答に一同感嘆したそうです。 我々凡人も身に着けたい教訓ですね。
 また、ある有名人は人のおしゃべりについて、「能弁は銀、沈黙は金、駄弁は糞」と言って意味のない
 語りを戒めているようです。
 2年前発刊された”杉崎泰一郎著「沈黙すればするほど人は豊かになる」幻冬舎発刊を読んで一段と
 その奥深き意義を知ることが出来ました。 それはラ・グランド・シャルトルーズ修道院の実態を
 紹介されたものでした。修道士は世を離れているが世間から逃避しているのではなく灯台守のように
 遠く離れて孤独に暮らしながら世を照らす役割に例えています。
 それは、京都の龍安寺にある「吾、唯足るを知る」に似た思想で、修道院の生活とは実は豊かな生活で
 生活には全く不安を感じないそうです。何も持たない事によって、心豊かな生活を送っているとの事。
 物質文明に甘んじている我々には耳の痛い話ですね。



[6946] シルバー川柳

投稿者: datsun 投稿日:2018年12月 8日(土)20時23分51秒   通報   返信・引用

連れ合いが会合で貰ってきました。



[6945] 第十四回東海道五十三次・鴛鴦道中その2

投稿者: 98CHAN 投稿日:2018年12月 6日(木)17時59分22秒   通報   返信・引用   編集済

>平成30年12月2日(日)1泊2日の二日目、薄曇り、残念ながら今日は富士山の端麗な顔を見る事が出来
>ませんでした。今日の歩行距離は吉原の元市場を出て蒲原宿を経て由比宿迄のちょっと坂道ありの道程
>13キロ、名所旧跡を訪れての+α=2キロの合計15キロの行程です。
>まずは本市場を出て間もなく35番目の一里塚=元市場一里塚の石碑を見て進むと札の辻に至る。ここの
>札の辻は近くの実相寺のお札を売っていた場所、「西の比叡山、東の実相寺」と言われるほどお寺で
>その寺領は相当なものだったそうです。
>そこから2キロ程行くと富士川の昔の渡船場跡に着く。富士川は日本三大急流の一つで因みに後の二つは
>皆様ご存知の球磨川と最上川である。
>渡船場の運賃・人足・馬揃え・川止め等の管理を任されていたのが少し坂道を上った処にある岩淵の間宿=
>(あいのしゅくと読む)にある「常盤邸」である。ここ岩淵には参勤交代で江戸に上る西国の諸国大名が
>富士川を渡る準備・休憩をするための施設として本陣・脇本陣があり、その主が常盤邸であった。
>ここは安政元年(1854年)の地震後に再開され現在も残されている。そして此処は女優の「常磐貴子」の
>祖先の家で今は住んでいないが祖母の代まで住んでおり、岩淵むらの名主だったため一般の民家には
>見られない上段の間と言われる部屋がある。村はずれの岩淵一里塚は江戸から数えて37番目の塚で、そこに
>植えられている榎は開設当時に植えられたもので樹齢400年と言われている。常盤邸から2キロ歩いた
>処で10時の休憩、古くからある和菓子店「ツルや」でクルミ大福をごちそうになる。素朴な味でとても
>美味しく戴きました。甘党の小生にはもってこい::
>ここから街道は下り坂になり内陸部から海岸へと向かっていく。新幹線のトンネルをくぐり、東名高速道の
>下をくぐると海が見え始めた。坂道を下りきると蒲原一里塚=江戸から38番目の石碑を見る事が出来る。
>そして程なく江戸から15番目の宿場・蒲原宿に到着。
>蒲原宿は三度の風水害で被害を受け内陸の方に宿場を移したが、今もなお当時の古い街並みが残っている。
>この宿場は広重描くところの東海道五十三次の作品中で最高傑作の一つが「蒲原夜の雪」と言われ、夜に
>雪が降り積もる情景は、しんとした静けさが伝わり、広重唯一の夜の作品と言われている。
>昭和35年、記念切手として「夜の雪」が採用されたのを記念して石碑が建てられていた。
>ここで昼食。 坂道あり下りありの街道歩きちょっと疲れました。 1時間ほどの休憩の後午後の部出発。
>午後からは蒲原の本陣跡・高札場の石碑を確認しながら歩を進める。午後からの5キロは遠くに駿河灘を
>眺めながらただひたすらに由比宿を目指して歩く。時折村人に声をかけられ心が和みました。
>由比一里塚=江戸から39番目のを過ぎ由比宿へ入る。 由比本陣跡にある「東海道広重美術館」を見学。
>美術館にあるその浮世絵の見事さにただただ感嘆するばかりでした。「温故知新」・いい言葉です
>広重美術館の街道を挟んで真ん前に「正雪紺屋」という屋号のお店がありましたが、ここは「由比正雪」
>の生家だそうです。 彼は江戸時代初期の軍学者で「丸八忠弥」と結託、江戸の不満分子の浪人達と
>共に江戸幕府討幕を謀りましたがそれが事前に発覚、追っ手に追われて捕まる寸前に自刃したという。
>生家は今、昔ながらの染物を中心にしたお土産物店を営んでおりました。
>そしてあと少しで今日のゴール地点、由比川の河川敷に辿り着き、目出度く15キロを踏破しました。
>道中様々な思いが脳裏を過ぎりましたが、何はともあれ夫婦して健康で生かされている事に感謝・感謝の
>1泊2日街道歩きでした。
>次は来年1月19~20日の予定です。 差支えなければ来年も又読んで下さい。



[6944] 第十四回東海道五十三次・鴛鴦道中その1

投稿者: 98CHAN 投稿日:2018年12月 6日(木)12時00分50秒   通報   返信・引用   編集済

>平成30年12月1日(土)~2日(日)、今回から1泊2日の街道歩きとなりました。11キロの行程
>初日は快晴快晴、又快晴の終日好天に恵まれ、東名高速を疾走するバスの車窓から箱根の山々の紅葉、峠を
>越えると八合目まで新雪を被った霊峰富士が目にも鮮やかにくっきりと見え、峠を下り始めると波穏やかな
>駿河湾が洋々として見られました。 そして、終日旧街道に沿ってあるくに連れいつも右側にあった富士が
>一瞬だけ、ほんの100mの間だけ左に見え(本日のトレッキングの目玉)更に歩を進めると真後ろに見え
>次は真ん前にと、とても楽しく疲労感も覚えずルンルン気分でトレキングを十二分に満喫できました。
>地元の古老たちの話によると「こんなに見事な富士が見えるのは1年の中でも数えるほどしかないよ!!
>あんた達は幸せ者だね」との言葉をかけられました。ラッキーてな感じ!! (^○^)

>7時30分に東京を出発、前回のゴール地点原宿今回のスタート地点でもある東田子の浦に10時に到着する
>学生時代学んだ百人一首の和歌「田子の浦うち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」を思い出す
>恒例の準備体操を済ませガイドのイヤホーンを受け取り準備万端整った処で、「エイ、エイ、オー」の
>掛け声もろとも「いざ、出発」15番目の吉原宿に向かう。
>吉原は現在製糸業が盛んな街で多くの大手の製糸工業があり、各工場からもくもくと煙が立ち上っていた。
>歩き始めて約3キロ程で元吉原の宿に着く。この町は江戸時代三度大地震、大津波の被害に会いその度に
>宿場が内陸の方移っていった為、江戸から京へ向かう場合海と並行していた東海道は北側に大きく曲り
>通常右手に見えていた富士山が左手に見えるようになり「左富士」と云う景勝地が生まれたとのこと。
>しかも「左富士神社」と言われる神社まで建立されていました。左手に富士山が見えるのはほんの僅か
>100m程の区間ではあるが現在も大きな松の木越しにしっかりと富士を望むことが出来ました。
> そこで一句、”冬晴れや前富士後富士左富士”  鶴寿
>左富士を見て約500m程で「平家越えの碑」に到達。ここは昔、源氏と平家が争っていた頃、平家が
>富士川西岸に、源氏が東岸に陣を構え、夜陰に紛れて源氏が敵の後ろの廻り挟み撃ちの作戦に出て軍を
>移動させていた処、これに驚いた大群の水鳥が一斉に飛び立ち、その音に驚いた平家軍は慌てふためいて
>逃げてしまった、という源平の富士川の合戦碑が建てられていた。
>尚、吉原宿は三度の風水害に合ったことは先述の通りであるが、最初の宿場町を本吉原宿、2番目の宿を
>中吉原宿、最後の宿を新吉原宿と呼んでいるようです。
>不埒者の小生は「吉原」と言えば浅草の「吉原=歓楽街」を思い出しましたが、この町には微塵もそんな
>気配はありませんでした。(ご参考までに・・・)
>
>本日のゴールは「間(あい)の宿元市場」である。1820年頃ここに「鶴の茶屋」が建てられた。
>ここから富士を眺めると中腹に一羽の鶴が舞っていたかのように見えたので京都の画家が絵をかき
>江戸の学者が詩文を書いたという石碑が建てられていた。
>
>ゴール地点で夕闇が迫りくる頃、またまた幸運にも真っ赤に燃えた夕陽に照らされたかの有名な
>「赤富士」を見る事が出来ました。 今日は一日”富士三昧”で素晴らしい一日でした。
>
>そしてホテルではご当地名物の金目鯛の煮つけ(うんまかったがよ~)に金目の蒸し焼き、刺身盛合せ
>駿河湾の海の幸を思う存分に堪能しました。
>
>明日もあっで「今日はここらでよかろかい」


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